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第二次世界大戦出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 第二次世界大戦 戦争:第二次世界大戦 年月日:1939年9月1日から1945年9月2日 場所:主にヨーロッパ・アジア太平洋 結果:連合国の勝利 交戦勢力 連合国など 枢軸国 など 指揮官 損害 死者 軍人1700万人 民間人3300万人 (諸説あり) 死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説あり) 第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)は、1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を出す人類史上最大の戦争となった。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦後」といった場合、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)より後を指すことが多い。 目次1 概要 1.1 参戦国 2 背景 2.1 ヴェルサイユ体制と世界恐慌 2.2 ファシズムの台頭 2.3 宥和政策とポーランド問題 3 経過(欧州・北アフリカ) 3.1 1939年 3.2 1940年 3.3 1941年 3.4 1942年 3.5 1943年 3.6 1944年 3.7 1945年 4 経過(アジア・太平洋) 4.1 日本の参戦 4.2 1941年 4.3 1942年 4.4 1943年 4.5 1944年 4.6 1945年 5 戦時下の人々の暮らし 5.1 日本 5.2 ドイツ 5.3 イギリス 5.4 アメリカ 6 影響 6.1 概要 6.2 戦争裁判 6.3 ヨーロッパ 6.3.1 ヨーロッパ全域 6.3.2 ドイツ 6.3.3 オーストリア 6.3.4 ギリシャ 6.3.5 イタリア 6.3.6 フィンランド 6.3.7 イギリス 6.3.8 フランス 6.3.9 ソビエト 6.3.10 ポーランド 6.3.11 チェコスロバキア 6.3.12 ハンガリー 6.3.13 ユーゴスラビア 6.3.14 ポルトガル 6.3.15 アルバニア 6.3.16 スイス 6.3.17 バチカン 6.3.18 スウェーデン 6.3.19 デンマーク 6.3.20 ノルウェー 6.4 東アジア 6.4.1 日本 6.4.2 満洲国 6.4.3 中華民国 6.5 東南アジア 6.5.1 タイ 6.5.2 フランス領インドシナ 6.5.3 オランダ領東インド 6.5.4 イギリス領マラヤ 6.5.5 アメリカ領フィリピン 6.6 南アジア 6.6.1 イギリス領インド 6.7 オーストラリア・ニュージーランド 6.8 中東・北アフリカ 6.8.1 イスラエル 6.8.2 サウジアラビア 6.8.3 ヨルダン 6.8.4 イラク 6.8.5 イラン 6.8.6 レバノン 6.8.7 トルコ 6.8.8 エジプト 6.9 南北アメリカ 6.9.1 アメリカ合衆国 7 新たに登場した兵器・戦術・技術 8 評価 8.1 帝国主義の終焉と植民地解放 8.2 大戦と民衆 8.3 『よい戦争』 8.4 民主主義と戦争 9 第二次世界大戦を題材とした作品一覧 10 脚注 11 参考文献 12 関連項目 13 外部リンク日本、ドイツ、イタリアなどによって構成される枢軸国と、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国などが構成する連合国の間の戦争。ヨーロッパでは、1939年9月1日早朝(CEST)、ナチスドイツがポーランド侵攻したことを受けて、イギリス・フランスがドイツに対し宣戦布告をしたことにより始まった。アジアおよび太平洋では1937年7月7日の蘆溝橋事件から日中間が事実上の戦争状態になっていたが、1941年12月8日(JST)に日本が当時アメリカの自治領であったハワイの真珠湾を攻撃したこと並びにイギリス領マレーのコタ・バルに対する上陸作戦を開始したことにより日本、アメリカ合衆国が参戦した。同年12月9日には中華民国が正式に宣戦布告し、さらに12月11日にはドイツ・イタリアがアメリカに対し宣戦布告をしたことによって戦争は世界規模のものとなった。 初期は枢軸国側が優勢に駒を進め、ドイツ軍が一時的にヨーロッパ大陸諸国を占領。1940年6月にはパリを占領、フランスを降伏させた。1941年にドイツは独ソ不可侵条約を破棄してウクライナなどに侵入し、独ソ戦が始まった。日本は当初、阿部信行内閣において、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし大戦への不介入方針を掲げたが、阿部内閣総辞職後、松岡洋右らの親独派が中心となって日独伊三国軍事同盟を結んだことによって完全に枢軸国側に立つことになった。つづいて日ソ中立条約によってソ連も含めた四国同盟を模索したが、独ソ戦の開始によってその構想は画餅に帰し、ソ連は連合国側に立って参戦することとなった。1941年12月に、日本がアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発。1942年中盤までは、欧州・太平洋両戦線共に枢軸国が有利であったが、以降は連合国側が優勢に転じ、1943年1月にスターリングラードでドイツ第6軍が降伏し、9月にアメリカ・イギリスの連合軍が北アフリカに上陸したことでイタリアが降伏。1945年5月にアメリカ・ソ連・イギリス軍のベルリン占領などによりドイツが降伏。同年8月には日本の長崎・広島にアメリカによって原子爆弾が投下され、更にはヤルタ会談に基づき、ソ連が日ソ中立条約を破棄・参戦したことで日本が降伏。ポツダム宣言の受諾、日本の降伏をもって第二次世界大戦は終結した。 枢軸国の中核となったのはナチス・ドイツ、大日本帝国、イタリア王国の3か国、連合国の中核となったのはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国の5か国である。大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。詳細は第二次世界大戦の参戦国を参照のこと。 詳細は第二次世界大戦の背景を参照 ドイツがヴェルサイユ条約によって喪失した領土ヨーロッパでは、1919年に第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、ヴェルサイユ体制が成立した。ドイツやオーストリアは講和条約において領土の一部を喪失し、その領域は民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロヴァキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしこれらの領域には多数のドイツ系住民が居住しており、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民の処遇の問題は新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、ドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。1922年フランスが賠償金支払いを要求してルール占領を強行したことにより、ドイツでは社会不安が引き起こされ、ハイパーインフレーションが発生した。 アメリカ合衆国は、1920年代にはイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかし1929年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展した。世界恐慌に対する対応として、英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアではこのような解決策を取ることはできなかった。両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズム、ナチズムの運動が勢力を得る下地が形作られた[1]。 ヒトラーとムッソリーニファシズムの政治体制が最初に形成されたのはイタリアにおいてである。イタリアでは第一次世界大戦直後に経済が悪化し政情不安に陥っていたが、1922年、ファシスト党を率いるベニート・ムッソリーニがローマ進軍を行い、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の協力もあって権力を獲得した。世界恐慌の苦境に際しては、ムッソリーニは1935年のエチオピア侵略に打開策を求め、それが元となってイタリアは1937年に国際連盟を脱退した。 ドイツでは1933年、ヴェルサイユ体制の打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任、翌年には総統に就任し独裁的権力を掌握した。ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服した。国際関係では、1933年に国際連盟を脱退、1935年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言、1936年にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させた。また、ファシスト・イタリアと関係を結び、同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結んだ。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟へと発展してゆく。 日本は米英との協調外交を指向していたが、満洲および内モンゴルの支配権を巡り次第に対立するようになる。日本は昭和金融恐慌以後の苦境からの脱出を図り、円ブロックを形成・拡大するために大陸進出を推進しようとした。1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1933年には国際連盟を脱退した。満洲事変後、中国と日本とは一旦は停戦協定を結ぶものの、1937年に盧溝橋事件が発生し日中戦争(支那事変)が勃発した。米英は日本の行動に反発し、日本は次第にナチス・ドイツへの接近を強めていった。 英仏では、ナチス・ドイツの軍備拡張政策に対して、第一次世界大戦で受けた膨大な損害の反動から国民は平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦にドイツが対抗することを期待して、宥和政策を取ることに終始していた。ヒトラーは、ドイツ周辺の国々におけるドイツ系住民の処遇問題に対しては民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月、手始めにドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。 次いでヒトラーは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方に狙いを定めた。英仏との間ではヒトラーによる強引ともいえる要求と、戦争を避けようとする宥和政策との間で駆け引きが続けられた。1938年9月に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協した。チェコスロバキアは解体され、ドイツはズデーテン地方を獲得しチェコを保護国とした。 しかしヒトラーの要求はこれにとどまらず、1938年10月にはヴェルサイユ条約によりポーランドに割譲されたポーランド回廊の回復に手をつけた。英仏にとってミュンヘン会談が妥協の限界であり、ヒトラーにとってはミュンヘン会談での成功は更なる要求への一歩でしかなかった。ミュンヘン会談の合意を反故にされた英仏はここに至り、急速にドイツとの対決姿勢をみせることになる。1939年、ドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、反共のナチス・ドイツとは相容れないであろうソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。ポーランド回廊に関する要求を頑として拒否し続けるポーランド政府に対して、ヒトラーは武力による問題解決を決断、1939年9月1日、ドイツ軍へポーランドへの進攻を指示した。9月3日英仏両国もドイツへ宣戦を布告、ここに第二次世界大戦が勃発した[2]。 欧州・北アフリカにおける大戦の経緯は、1939年にドイツがポーランドへ侵攻したことにはじまる。1940年にはドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増していき、1941年には日本とアメリカが参戦してドイツの戦況に影響を与えた。1942年にはドイツやイタリアの枢軸国の勢いが徐々に収まっていき、1943年には連合国が優勢になり、ヨーロッパの枢軸国が衰退した。1944年には連合国の勢いが更に増し、1945年には追い込まれたヒトラーが自殺し、ヨーロッパの枢軸国が次々と降伏して欧州・北アフリカにおける戦争は終結した。 ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)これに先立つ8月23日にドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んでおり、この際の密約に基づいて9月17日にはソビエト連邦軍もポーランドを東方から侵攻したが、ポーランドとの相互援助条約が存在するにもかかわらず、ソビエト連邦によるポーランド侵攻に対してフランスとイギリスは宣戦布告には至っていない。これに味をしめたソビエト連邦は続いてポーランドと同じく隣国になるフィンランドに侵略を開始した(冬戦争)。この行為により、ソビエト連邦は国際連盟から除名処分となる。 総兵力こそ100万を超えるものの、戦争の準備が全くできておらず、近代的な軍備にも乏しく小型戦車と騎兵隊を中心としたポーランド陸軍は、ドイツの急降下爆撃機と戦車部隊の連携による電撃戦により殲滅された。国際連盟管理下の自由都市であるダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦のシュレースヴィッヒ・ホルシュタインによる砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、開戦から1か月にも満たない9月27日には首都ワルシャワも陥落。ポーランド政府はフランスのパリに亡命した。また、ドイツ軍のポーランド侵攻直後から、ドイツ軍の占領地域に在住するユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。 同様にソ連軍によるポーランドの占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害されたのを始め、1939年から1941年にかけて180万人ものポーランド市民が殺害されるか国外追放された。 ドイツ軍のシュレースヴイッヒ・ホルシュタインフランスとイギリスはドイツに宣戦布告したものの、その軍隊をポーランド方面に進めることはせず、この年の間、西部戦線に大きな戦闘はおこらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間には、「クリスマスまでには停戦だろう」と言う、根拠の無い期待が広まっていた。また、ヒトラーは戦前宥和政策に終始しており、反共産主義という点で一致していたイギリスとフランスが本気で宣戦布告してくるとは想定していなかった。 11月8日にはミュンヘンのビヤホール「ビュルガー・ブロイケラー」で、ドイツ軍内部の反ヒトラー派によるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、ヒトラーは早めに演説を切り上げたため難を逃れた。なお、その後も数度にわたりヒトラー暗殺計画が実行されるものの、ヒトラーは全て間一髪で難を逃れることになる。 ドイツのフランス占領(1940年)この年の4月に、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーを突如侵攻し(北欧侵攻)まもなく占領した。しかし、この作戦遂行を通じて、海軍国でもある両国に比べ脆弱なドイツ海軍は多数の艦艇を失った。 同時期にソ連はレニングラード防衛を理由に隣国のフィンランドを侵略して冬戦争を引き起こし、フィンランドはカレリア地方をソ連に割譲してソビエト連邦と講和した。 マジノ線の要塞西部戦線では長い沈黙の後、5月前半に急遽ドイツ軍が強力な軍隊を持たないが戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグといったいわゆるベネルクス諸国に侵攻(オランダにおける戦い)、相次いで制圧し、国を追われたベルギー政府およびレオポルド3世国王をはじめとする王室はイギリスに亡命。5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。また、5月15日に降伏したオランダ政府も同じく王室ともどもロンドンに亡命した。 まもなくフランスとの国境へ迫ったドイツ軍は、外国からの侵略を防ぐ楯となるものとしてフランス軍民から大きな期待を持たれていたフランス国境に築かれた巨大要塞・マジノ線を迂回し、アルデンヌ地方の森を突破してフランス東部を電撃戦にて瞬く間に制圧した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。 ドイツ軍の破竹の進撃を受けて大西洋沿岸に追い詰められたフランス・イギリス軍を救うためにイギリスはダイナモ作戦を展開し、6月4日には34万人の英仏軍救出作戦を完了した。この際にヒトラーが、救出作戦の妨害に戦車部隊を投入しなかったために、イギリス軍は結果的に3万人ほどの捕虜と多くの兵器を廃棄したものの精鋭部隊を救出することができた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦の成功を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。 パリでパレードを行うドイツ軍その後ドイツ軍は首都であるパリを目指す。敗色が濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日には首都のパリを全面的に放棄した。このため、14日には戦禍を受けておらずほぼ無傷のパリにドイツ軍は入城した。その後の22日、フランス軍はパリ近郊のコンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した。[4]なお、その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後に、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる政権ヴィシー政権が樹立される。 このような動きに対し、フランスの敗戦後にロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援した。[5] また、ドイツによる対フランス戦の末期の7月10日、枢軸国の一員でドイツの盟友であるイタリアも、この勝利に相乗りせんとばかりに正式にイギリスとフランスに対し宣戦布告をした。そして、北アフリカではリビアからエジプトへ、バルカン半島ではアルバニアからギリシャへ侵攻を開始したが、参戦の準備がきちんとなされないまま性急に参戦したことなどから、どちらも反撃にあい逆に侵攻されてしまった。 ヨーロッパ大陸から連合国軍を追い出し勢いをつけたドイツは、当面の最大の敵であるイギリス本土への上陸を目指し、7月頃よりイギリス本土上陸作戦である「アシカ作戦」の前哨戦として始まった対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」が行われる。なお、この頃イギリス政府は、ドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ撤退する準備を開始するとともに、ドイツ軍による市街地爆撃の激化に対応し学童疎開を本格化させる。 ドイツのバルカン半島侵攻(1941年) 砂漠の狐ことロンメルイギリス軍は自らの植民地であるイベリア半島先端のジブラルタルと、北アフリカのエジプトにあるアレキサンドリアを東西の拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海[6]を確保して枢軸国軍に対する侵攻を企画していた。このような動きに対してドイツ軍は、イギリス軍との戦いに劣勢であったイタリア軍の支援のために、ユーゴスラビア王国やブルガリア王国などのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻するとともに、クレタ島の戦いにおいてイギリス軍に勝利し、同島を制圧した。ジブラルタルへの攻撃をドイツは計画したが中立国であったスペインはこれを認めようとはしなかった。[7] 6月22日には、ドイツ軍が1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでいたソビエト連邦に対して、突如バルバロッサ作戦と呼ばれる対ソビエト連邦侵攻作戦を開始し、ここに独ソ戦が始まった。ドイツ軍は300万近い兵士を事前に移動させ、航空機による偵察を念入りに行なうなど準備を進めていたにも拘らず、独裁者であるヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦はこの攻撃をまったく予想せず、侵攻に備えていなかったために前線は混乱した。ソ連軍(赤軍)は敗走を重ね、それに乗じてドイツ軍は瞬く間にソビエト領内を進軍して行った。ソ連のポーランド侵攻、フィンランド侵攻などの行動により、距離をおいていた連合国側は独ソ戦の始まりによってソ連を連合国の側に受け入れることを決定し、武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。 これに先立ちドイツは、日本に対して東方での対ソ戦を行うよう強く働きかけるものの、ノモンハンの戦いにおける事実上の敗北以来対ソ戦に対して慎重である上、資源確保に比重を置いた日本政府および軍部は、南方・太平洋方面への進出の決意を固め、対ソ参戦計画を破棄する。この頃、日本に送り込んだスパイ、リヒャルト・ゾルゲの情報により日本が対ソ戦を展開しないことを知ったソ連は、4月に日本との間で日ソ中立条約を結び、その結果、日本軍とその傘下の満州国軍に対抗するために極東に置いた軍の一部を対ドイツ戦に振り分けることができ、これがその後の対ドイツ戦に大きな影響を与えることとなった。 しかし、情報部からドイツ軍の国境部における動きに対する警告が繰り返されたにもかかわらず、スターリンはこれらの情報はドイツとソ連が戦争の口火を切ることを目指したイギリスから意図的に流された誤情報であると考えて、直接的にドイツ軍の侵攻に備えることをしなかった。そのために年末までの間にソ連軍は一方的な敗北を重ねドイツ軍に首都・モスクワの近郊にまで迫られてしまう。 また、この年の現地時間12月7日に起きた真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦し(大東亜戦争の勃発)、それを受けて12月11日にドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、事実上の同盟国であるイギリスなどの働きかけを受けて、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦した。 日本と中国(国民党および中国共産党)の戦いである支那事変以外は平静を保っていたアジア太平洋地域においても、イギリスやオランダ、アメリカなどの列強を巻き込んだ戦いが始まり、ヨーロッパ戦線にも5大国の一端を担うアメリカが参戦したことにより、名実ともに世界大戦となった。なお、これに先がける8月にはアメリカとイギリスが大西洋憲章を発表していた。 ドイツのソビエト侵攻(1941年から1942年)この頃ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートがイギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断をねらい、北大西洋付近を中心に多くの連合国の艦船を沈めた他、アメリカ合衆国やカナダの大西洋沿岸やカリブ海沿岸、インド洋のアフリカ沿岸にまで度々その姿を見せ連合国の艦船に攻撃を加えるなど大きな脅威を与えた。しかし、その後アメリカ、イギリス両海軍が航空機や艦艇によるUボート対策を強化したために、逆に多くのUボートが沈められることとなり、その勢いは急速に削がれることとなる。 また、前年始まった対ソ戦線(東部戦線)では総崩れとなったソ連軍を相手に怒涛の進撃を見せていたものの、自身が想像していなかったほどの勝利により戦線が伸びきったことや、例年より早い冬将軍の到来もあり、前線における補給に問題が続出したドイツ軍を中心とする枢軸国軍は、ブラウ作戦中の6月に起こったヴォルガ川西岸に広がるスターリングラード[8]を巡るスターリングラード攻防戦で、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者(と4万人を超える民間人の死者)を出す壮絶な地上戦を行った結果、地の利と数に勝るソビエト軍に対し歴史的な敗北を喫する。 スターリングラードで戦うドイツ兵この大敗北の余波もあり、対ソビエト戦線において、ソビエト連邦の首都のモスクワの直前まで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を始めることになる。またこの頃、北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が快進撃を続けていたものの、7月から行われたエル・アラメインの戦いにおけるイギリス軍などの連合軍に対する敗北など、北アフリカ戦線においての形勢も徐々に逆転しつつあった。 これらの各方面における相次ぐ敗北により、同盟国としてイタリア軍はいるものの頼りなく、事実上一国のみでヨーロッパ戦線において連合諸国軍と戦うドイツは自らの攻勢の限界を見ることとなり、この頃より、対ソビエト戦や北アフリカ戦での連合国軍に対するドイツの勢いが徐々に収まってゆく。 ドイツ政府により強制移送されるユダヤ人また、この年の7月から、1933年の選挙での勝利による政権取得以降、国民の支持を元にユダヤ人迫害政策を進めていたナチス党率いるドイツ政府による、ポーランドやユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアなどのドイツ軍の占領域内のユダヤ人ゲットー住民に対する、アウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への移送と、ガス室などを使った大量殺戮が始まるなど、ドイツ政府によるユダヤ人絶滅計画である「ホロコースト」の実行が本格化することになる。 ドイツ政府によるユダヤ人への大量殺戮は、ドイツの敗色が濃くなりドイツ全土が連合国に占領される直前の1945年初頭まで継続的に行われた。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にもシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者や政治犯など数万人も含まれる)の死者は数百万人にわたると言われている。 連合国に東西から追い詰められるドイツ(1943年から1945年) クルスクの戦いで破壊されたソ連のT-34戦車この頃ドイツ軍は、二次ルジェフの戦い以降、ソ連軍に対し完全に劣勢に陥っていた東部前線のクルスクを巡る戦いにおいて持てる予備兵力の大半を使い果たし敗北を喫した。前年からの相次ぐ敗北により装備も兵力も消耗し切り完全に疲弊したドイツ軍は、東部戦線ではこの後二度と攻勢に廻ることはなかった。[9] フランス領内を進軍するアメリカ軍日系人部隊連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピア戦争の結果植民地としたエチオピアを含む北アフリカでの戦いにも敗北し、連合軍に対して完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐イギリス大使で、指導者のベニート・ムッソリーニと関係の深かった王党派のディーノ・グランディ伯爵が、7月24日に行われた大評議会において、連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及した。この動きに対しムッソリーニの義理の息子でもあるガレアッツォ・チアーノ外務大臣ら多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、孤立無援となったムッソリーニは失脚、同日憲兵隊に逮捕され即座に投獄された。 逮捕されたムッソリーニの後任として、国王エマヌエーレ3世に任命されたピエトロ・バドリオ元帥率いる新政権は9月8日に連合軍に対して休戦し、直ちにイタリア軍は連合国軍に合流した。しかし、逮捕された後に新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソホテルに幽閉されたムッソリーニは、同月12日にヒトラー直々の任命により救出に駆けつけたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー大佐が率いる特殊部隊によって救出された。その後、かつての盟友であったヒトラーの保護下に降ったムッソリーニは、まだ連合軍の侵攻を受けていなかった北イタリア地域でナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」の樹立を宣言し、同地域は直ちにドイツの支配下に入ることとなった。 このイタリアにおける戦いと、その後のヨーロッパ戦線における戦いでは、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団が、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながらもアメリカの陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残しており、この事は戦後の日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献する結果を生んだ。 チュニジア戦線におけるド・ゴールまたドイツ軍とイギリス、アメリカ、自由フランス軍などの連合国軍が対峙していた北アフリカ戦線では、この頃より勢いを失ったドイツ軍に対して連合軍が主導権を握る。また、フランスの降伏以降自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかずに残存していたフランス軍を率い、イギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心に対独抗戦を指導した。 この様に連合国がヨーロッパ戦線において完全に優勢になったことを受け、この年には、カサブランカとカイロ、テヘランにて、イギリス、アメリカ、自由フランス、中華民国、ソビエト連邦などの連合国各国の首脳による、今後の戦争の方針と戦後の枢軸国の処理が話し合われる会議が相次いで行われた。 フランスのノルマンディーに上陸する連合軍 パリ市内を行く自由フランス軍と連合軍の装甲車この年の4月にソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。ポーランドのワルシャワでは1944年8月にソ連軍の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったためにソ連軍が救援せず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。 一方で、すでにイタリアへの上陸を成功させたものの、フランスへの再上陸による西部戦線の構築をきっかけとした本格的な反攻のチャンスを伺っていた連合国軍は、この年の6月6日に、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハウアー将軍指揮の元、ドイツ軍に占領されている西ヨーロッパ戦線の中核である北フランスのノルマンディー地方に対して、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を行い、多数の死傷者を出す激戦の末見事に上陸を成功させた結果、1940年6月のダンケルクからの撤退以降約4年ぶりに西部戦線(フランス戦線)が再び構築された。この上陸とほぼ同時にイタリアではローマが解放された。 連合軍は、フランスへの再上陸を果たした後はレジスタンスの協力を受け進軍を続け、8月には1940年以降ロンドンにあったフランスの亡命政権「自由フランス」の指導者であったシャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍とレジスタンスを先頭にパリが解放された。なお、この際にドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物だけでなく、パリの市街地そのものが大きな被害を受けることはなかった。その後にドイツ軍はなし崩し的に敗退を続け、まもなくフランス全土が解放された。連合軍によってフランス全土が解放されたことにより親独的中立のヴィシー政権は崩壊し、ヴィシー政権の指導者であったフィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になったり国外に逃亡した。 ノルマンディー上陸作戦と連動して、東部戦線でもソビエト連邦軍によるバグラチオン作戦が行われ、この戦いにおいて虚を突かれたドイツ中央軍集団は崩壊し、勢いをつけたソビエト連邦軍はドイツとの国境付近まで迫った。敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺して連合軍との講和を企む声が日ごとに増し、7月20日には、予備軍司令部参謀長のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵らを中心にした反乱グループによるヒトラー爆殺計画が実行されたが失敗した。度重なる暗殺計画の発覚に疑心に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約4000人を処刑させた他、アフリカ戦線の指揮官で陸軍元帥でもあるエルヴィン・ロンメルを暗殺グループの一員と疑い自殺に追い込んだ。[10] 連合軍は敗走するドイツ軍を追い続けていたが、あまりの急進撃であったため補給が追いつかず、9月には停止してしまった。この時、一撃でドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日にオランダでマーケット・ガーデン作戦を実行するが、情報の軽視とドイツ軍の急速な立ち直りにより失敗してしまう。 この後の12月、ドイツ軍はベルギーのアルデンヌ地方の森林地帯を舞台としたバルジの戦いで西部戦線において最後の反攻を試みる。ドイツ軍は、連合国軍に比べ圧倒的に少ない戦力ながらも、綿密に計画された反攻計画が功を奏し、突然の反撃にパニックに陥った連合軍を一時的に押し戻した。しかし、その後体勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされるなど、ドイツ軍は東西から攻勢を受け、次第に撤退を余儀なくされる。 10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワにおいて、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアにおいてソ連が90%、ブルガリアにおいてソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした。[11] Me262ジェット戦闘機またこの頃、度重なる敗北で完全に劣勢に陥ったドイツ軍は、かねてから開発中であった世界初ジェット戦闘機であるメッサーシュミットMe262や、同じく世界初の飛行爆弾であるV1飛行爆弾と、次いで超音速で飛行する世界初の弾道ミサイルであるV2ロケットを実用化させ、イギリスおよびヨーロッパ大陸へ次々と上陸してくる連合軍に対し使用したものの、圧倒的な物量を元にすでにヨーロッパ大陸内に深く入り込んだ連合軍の勢いを止めるには至らなかった。 この頃から戦後の世界経済体制の中心となる金融機構について7月にアメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで45か国が参加した会議が行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争によって沢山の海外資産が無くなっていた上に、33億ポンドの債務を抱えていたため清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。 連合軍による強制収容所解放を祝うユダヤ人この年に入り、1939年9月のドイツ軍による侵略以降ドイツによる支配下に置かれていたポーランドは、ソビエト軍の侵攻によりその全域がドイツ軍の支配からソビエト軍の支配下に入り、1月27日にはソビエト軍がポーランド内のアウシュビッツにあるユダヤ人強制収容所を占拠した。さらにアメリカやイギリスなどの連合国軍がオーストリアやドイツ領内に進むにつれ、その他の多数のユダヤ人や政治犯などの強制収容所も開放されてゆき、多くの収容者とおびただしい数の死体が発見され、ドイツが国民の支持、または黙認を元にその国力を総動員して行われたユダヤ人絶滅計画とその実行過程の全貌が世界中に向けて明らかになる。 その後、ライン川を突破されたドイツ軍は、3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量を前に失敗する。この作戦により兵力となりうる軍をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、アルベルト・シュペーア軍需相はこれを聞き入れずほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送による演説も止めベルリンの地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。 度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い敗走を重ねるドイツ軍は、東のソビエト軍と西のイギリス、アメリカ軍の両方から挟み撃ちにあい、4月16日から17日にかけて、正面のゼーロウ高地以外の南北の防衛線を大幅に突破された。また、同時期にはソビエト軍に首都であるベルリンに迫られ、4月後半に入ると完全に包囲されるまでに陥った(詳細はベルリンの戦い参照)。このような状況下でドイツ軍は、武器らしい武器すら持たないヒトラー・ユーゲントなどの少年兵や老人の志願兵を中心に最後の抵抗を進めていた。 ヒトラーの自殺を報じるアメリカ軍の新聞このような絶望的な状況の中、次期総統の座を狙うマルティン・ボルマンにそそのかされたヘルマン・ゲーリングは4月23日にヒトラーに指導権を要求し、その結果ヒトラーが激怒しゲーリングは失脚。その上でヒトラーはオーベルザルツブルグの警察指揮官にゲーリング逮捕を命令するが、まもなくゲーリングが連合軍に投降したため果たされなかった。 開戦前からヒトラーの同胞であり、イタリアの降伏後はヒトラーによる好意でドイツによる傀儡政権の首領となっていたムッソリーニは、ドイツ軍とともにドイツ国内に向けて逃亡中にイタリア国内でパルチザンによって捕えられた。その後4月28日にパルチザンによって愛人のクラレッタ・ペタッチとともに処刑され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。 同胞のムッソリーニが無残にも処刑された上に、長年共にいた側近の多くが降伏、もしくは国内外に逃亡し追い詰められたヒトラーは、ムッソリーニのように死体を見世物にされたり、死体が宿敵のスターリンの手に渡ることを恐れて、4月30日にベルリンの地下壕内で前日に結婚したエヴァ・ブラウンとともにピストル自殺し(毒薬を飲んでとの説もある)、死体は遺言に沿って焼却処分にされた。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にカール・デーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定した。 ベルリンでソ連軍に対する降伏文書に署名するヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥 会談途中でイギリス首相が抜けたポツダム会談の写真ヨーロッパ戦線の終結に伴い、同年2月に行われたヤルタ会談に次いで、7月17日からは日本の終戦と日本降伏後の処理を話し合うためのポツダム会談が、イギリスのウィンストン・チャーチル首相[12]と、4月12日のルーズベルト大統領の急死にともない副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相出席のもと行われる。そしてこの会談で日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表と、ドイツの戦後分割統治が取り決められたポツダム協定の締結が行われた。 アジア・太平洋における大戦の経緯については、1941年に日本がイギリス領マレー半島とアメリカのハワイなどを攻撃したことにはじまる。1942年前半までは日本が破竹の勢いで勝ち進み予定以上の早さで、必要な戦略物資の確保を達成した。しかし、肝心の蘭印での油田獲得ではオランダの油井の破壊工作から、その後の日本軍を賄うだけの油量が産出できなくなった。米豪遮断の珊瑚海海戦で戦略目標を達成できず、東京空襲から決意されたミッドウェー海戦では電子戦に破れ空母部隊が半減した。やがてガダルカナルで消耗戦を強いられ、1943年には日本がアジアの国々を集めて大東亜会議を開いて大東亜共栄圏の結束を誇示したが、この年から米軍の通商破壊が始まった、1944年に入り米海軍の本格的な通商破壊作戦により商船隊はほぼ全滅し、日本本土は戦略物資の欠乏が目立ちはじめた。比島沖海戦で連合艦隊は壊滅し、前線の島々は孤立した。米軍はヨーロッパ戦線が一息ついたことから、本格的反攻を開始する。1945年には米軍の本土空襲が本格化し軍需産業と国民の戦意を打ち砕いた。さらに、沖縄が陥落し、政治的理由でアメリカが日本の広島・長崎に原子爆弾を投下し、ソ連が参戦したことにより、天皇の意思により同年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して終戦したが、ソ連軍の攻撃は停戦合意後も続き、日本は固有の領土を含む北方の島々を奪われた。9月2日、アメリカ海軍の戦艦ミズーリの艦上で降伏文書の調印が行われ、日本は正式に降伏した。 占領地域を広げる日本(1937年から1942年)1940年6月のフランスのドイツに対する降伏と、その後の親独政権であるヴィシー政権の成立を受け、1940年9月以降行なわれてきた日本軍による仏印進駐への対抗措置として、この年の7月以降イギリスやアメリカ、オランダなどにより日本に対して段階的に行われてきた石油や鉄の禁輸や日本資産の凍結を契機に、日本とそれらの後に連合国となる諸国との関係は緊迫の一途をたどって行った。 11月26日にアメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐アメリカ大使に手渡されたハル・ノートの内容を受け、日米間の交渉は完全に決裂し、12月1日に行われた御前会議において、事実上軍部に牛耳られていた日本政府はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国に対するの開戦を決意した。なお、日本政府がハル・ノートの内容に憤慨し、野村吉三郎大使に対してアメリカ政府との交渉の打ち切りを通告していたことを、アメリカ政府は暗号解読によって知っていたといわれている。 真珠湾攻撃に向かう零式艦上戦闘機その後、12月8日に同日行なわれたタイ国国境に近いイギリス領マレー半島のコタバルへの陸軍部隊の上陸と、日本海軍によって行なわれたハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、二日後のイギリス海軍艦隊に対するマレー沖海戦などの連合軍に対する戦いで日本海軍は大勝利を収めた。なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。しかし、イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告は、駐アメリカ大使館による暗号文の書き起こしとタイプ遅延などのために外務省の指令時間より1時間近く遅れたため、英米への攻撃が「宣戦布告なしのだまし討ちである」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなった(なお、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったにも関わらず、このように喧伝されることはなかった。さらに言えば戦時国際法では期限のない最後通牒を事実上の宣戦布告とみなすことができるとするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点でこれは宣戦布告に等しいとみなす考えもある。最後通牒の項も参照されたし)。 日本海軍による真珠湾攻撃で雷撃を受けるアメリカ海軍戦艦(1941年)日本海軍は、真珠湾を起点にするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦とその艦載機を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。 また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。 しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた[要出典]。また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)[要出典]。 日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス 香港に入城する日本陸軍一方、真珠湾攻撃の2日後に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍は、日本海軍航空機(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に失った。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。 この後日本軍は、連合軍の拠点(植民地)であるマレー半島[13]、フィリピン[14]、ボルネオ(現カリマンタン)島[15]、ジャワ島とスマトラ島[16]などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。しかし日本軍は、中立国であるポルトガルが植民地として統治していたが、オーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては、中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。[17] かねてヨーロッパ戦線における参戦の機会を窺っていたアメリカは真珠湾攻撃を理由として12月8日、連合軍の一員として正式に参戦した。また、すでに日本と日中戦争(支那事変)を戦っていた中華民国はこの事態をうけ、12月9日に日独伊に対し正式に宣戦布告をした(詳細は「日中戦争」の項を参照)。さらに12月11日には、真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告をした。これにより、この戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。 ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵これに先立ち日本軍は、中国戦線において北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首府である南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首府を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した反日抵抗戦を展開した。日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な攻撃に足止めを受けた他、また中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦争を駆使し、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、各地で寸断され泥沼の消耗戦を余儀なくされた。なお、満洲帝国[18]や中華民国南京国民政府[19]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。 また、アジア・太平洋地域においては1941年12月8日(日本時間)から日本が降伏文書に調印したまでの1945年9月2日までの戦争を大東亜戦争(当時の日本政府による呼び方)若しくは、太平洋戦争(当時の連合国による呼び方)と呼ばれる。地理的正確さを重視して、アジア太平洋戦争と呼ぶ論者もいる。 日本海軍の伊一二一型潜水艦 降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を宣言していたが、12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。 2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。 イギリス海軍のドーセットシャー日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。 日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士 日本軍の攻撃を受け沈むイギリス海軍巡洋艦「コーンウォール」同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在はミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[20]のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニまで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[21]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。 この頃イギリス軍は、友邦フランスの植民地であったものの敵対するヴィシー政権側に付いたため、日本海軍の基地になる危険性のあったアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇ディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。 サンフランシスコ市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本は戦争資源を消耗してゆくことになる。 珊瑚海海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は空母レキシントンを失ったが、日本軍も空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。 ミッドウェー海戦で急降下爆撃機の爆撃を受け炎上する日本海軍の空母飛龍4月、空母ホーネットから発進したB-25によるドーリットル空襲に衝撃を受けた海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するためミッドウェー島攻略を決定する。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は作戦ミスと油断により主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失う大敗を喫する(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。艦船の喪失だけではなく、多くの艦載機と熟練パイロットを失ったこの敗北は太平洋戦争(大東亜戦争)のターニングポイントとなった。 ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻(大鳳、天城、雲龍、葛城の4隻)のみであった(なお、アメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている)。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、この海戦における事実をひた隠しにする。 アメリカ本土空襲を行った大日本帝国海軍の零式小型水上偵察機また、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲し、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。なお、アメリカ政府は、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、この爆撃があった事実をひた隠しにする。 これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。 ガダルカナル島でのアメリカ海兵隊ミッドウェー海戦により、日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかった。 伊19潜水艦の放った魚雷が命中、炎上するアメリカ海軍の空母ワスプその後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊が意地を見せ、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が0という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給戦が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による輸送艦攻撃を行い、徹底して通商破壊作戦を実行。日本軍の物資や資源輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。長引く消耗戦により、1国でイギリスやアメリカ、オーストラリアや中華民国を相手にする日本は次第に守勢に回ることとなる。 太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となっていた。2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じた。これ以降、ソロモン諸島での戦闘はまだ続いたものの、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。 山本五十六連合艦隊司令長官4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[22]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官 |