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日本の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本史 は この項目へ転送されています。

テレビ番組『日本の歴史』については日本の歴史 (テレビ番組)をご覧ください。 高等学校の教科「日本史」については日本史 (科目)をご覧ください。 ルイス・フロイスの著書『日本史』についてはフロイス日本史をご覧ください。 日本の歴史 旧石器時代 縄文時代 弥生時代 古墳時代 飛鳥時代 奈良時代 平安時代 鎌倉時代 建武の新政 室町時代 南北朝時代 戦国時代 安土桃山時代 江戸時代 明治時代 大正時代 昭和時代 平成 Category:日本の歴史 日本教育史 日本の書道史 日本の貿易史 日本の軍事史 日本の海軍史

日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史である。本項では日本の歴史を概観する。

各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照されたい。

目次

1 歴史 1.1 旧石器時代 1.2 縄文時代 1.3 弥生時代 1.4 古墳時代 1.5 飛鳥時代 1.6 奈良時代 1.7 平安時代 1.8 鎌倉時代 1.9 南北朝時代 1.10 室町時代 1.11 戦国時代 1.12 安土桃山時代 1.13 江戸時代 1.14 明治時代 1.15 大正時代 1.16 昭和時代 1.17 平成時代 2 時代区分 3 歴史認識・歴史叙述 3.1 古代 3.2 中世 3.3 近世 3.4 近代 3.5 現代 4 参考文献 5 関連項目

詳細は日本の旧石器時代を参照

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。

約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化が始まると、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除き、次の縄文時代へ移行していった。

縄文式土器

詳細は縄文時代を参照

登呂遺跡竪穴式住居

約1万2千年前頃からは縄文時代と呼ばれる。草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。 この頃の人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んでおもに竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟貝塚に見られる漁労植物の採集などで生活を営み、打製石器磨製石器骨角器などを用いた。

栽培も行われ、後期から晩期にかけては稲作が行われた。

南西諸島においてこの時期の前半は旧石器時代が継続していたが、約6千年前以降に貝塚時代に移行し、およそ平安時代末期まで続いた。


吉野ヶ里遺跡(環濠集落)

詳細は弥生時代を参照

弥生式土器

紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された

当時の日本列島は中国から倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の国が中国へ通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後葉に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼はとの通交により倭国連合の安定を図った。

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。

詳細は古墳時代を参照

大仙陵古墳前方後円墳

3世紀中後期から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。

馬の埴輪

3世紀中葉に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が大和地域を中心として急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これについて初期国家の段階ではなく、王権の連合(連合王権)に過ぎないとする見解もある。

4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島南部への進出を開始したが、これを契機として朝鮮半島や中国の技術・文物が倭国へ多く流入することとなった。5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、中国王朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。倭の五王は国内に対し治天下大王と称したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識の現れとされる。この時期の前方後円墳は応神天皇陵仁徳天皇陵など特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。

倭の五王の後、5世紀後葉から6世紀前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、継体天皇の登場すると政治混乱の収拾が図られた。一方、朝鮮半島への進出傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。

この時期の後半、5世紀ころからオホーツク海沿岸地域ではオホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。

詳細は飛鳥時代を参照

法隆寺五重塔

6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。

6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国を統一したの登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前葉にかけて聖徳太子蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。

7世紀中葉の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内は国制整備で一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。

なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。

東大寺大仏

詳細は奈良時代を参照

薬師寺東塔

8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城平城京)が置かれた。

また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。

文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺国分寺が国家護持の名目で建立された。

詳細は平安時代を参照

8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。

平等院鳳凰堂

平安前期には百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで政府は11世紀初頭ごろから地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系においては負名体制が形成し、軍事面においては国衙軍制を通じて武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が政権中枢を担う摂関政治が成立した。

12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の増加が著しくなり、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元平治両乱を経て武士が政治に進出していき、その結果、平氏政権が登場した。

奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、平仮名片仮名の使用が開始し、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。

南西諸島においては、12世紀ごろからグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美諸島の歴史沖縄県の歴史

詳細は鎌倉時代を参照

蒙古襲来絵詞

源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その後の過程で守護地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。源氏将軍は三代で断絶し、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立。また、承久の乱の結果、公家政権は武家政権に寄生する存在となった。

13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。

文化面では運慶快慶の金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。

北海道においては、13世紀ころからアイヌ文化が成立した。

詳しくは南北朝時代を参照

14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統南朝持明院統北朝に朝廷が分かれた。室町時代の初期に当たる。

大覚寺統の後醍醐天皇鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離れ、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追い、南北朝の争いが全国で行われた。

鹿苑寺金閣(北山文化 慈照寺銀閣(東山文化

文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、二条河原落書など文化の庶民化への動きが見られた。

詳細は室町時代を参照

天橋立図(水墨画

14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。

3代将軍足利義満南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から[日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。

川中島の戦い

詳細は[[戦国時代]]を参照

15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。

この時代は、守護大名守護代国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。

そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。

この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃キリスト教などが伝来し、日本社会に一定の影響を与えた。

織田信長 豊臣秀吉

詳細は安土桃山時代を参照

織田信長は将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一事業は豊臣秀吉が継承することとなった。

秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。

秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な桃山文化が展開した。

詳細は江戸時代を参照

徳川家康

慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸江戸幕府が置かれた。

豊臣秀吉が死去すると、徳川家康関ヶ原の戦いに勝利して征夷大将軍に任じられ、大坂の役豊臣氏を滅ぼした。幕府は禁中並公家諸法度武家諸法度朝廷大名を統制し、諸大名は参勤交代で江戸と領国の往復を課せられた。幕府はキリシタンを禁止し、島原・天草一揆を経て鎖国を完成させ、オランダとの長崎出島における交易がわずかに行われた。李氏朝鮮とは朝鮮通信使による交渉が保たれた。

政治が安定すると経済が発展して、徳川綱吉の時代には好景気に沸き商人や町人が力を伸ばし元禄文化が栄えた。

浮世絵(『富嶽三十六景 - 凱風快晴』葛飾北斎

末期は特に幕末と呼ばれ、欧米諸国から開国を迫られ、ペリーが来航して日米和親条約などの不平等条約が結ばれ鎖国は崩れた。開国にともない尊王攘夷の考えが強まり、半ば内乱状態になり幕府の権威は弱体化して、遂に徳川慶喜大政奉還を行い朝廷に政権を還した。

元禄文化化政文化などの町人文化が栄えた。寺子屋藩校で広く教育が行われ、歌舞伎が演じられ、俳諧が詠まれ、浮世絵が描かれ、お陰参りなど旅行が行われた。

詳細は明治を参照

明治天皇

明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。

朝廷とそれを推戴する諸藩は、王政復古の大号令戊辰戦争などを経て江戸幕府勢力を退けると、新たな政府(明治新政府)を樹立した。新政府では天皇が大権を有し、欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県など明治維新と呼ばれる様々な改革を行った。その流れで琉球王国蝦夷地(現在の北海道千島列島など)を日本領とし、現在の日本につながる国土の領域をほぼ確定した。また同時に欧米の文化・文物が導入され、その有様は文明開化と呼ばれた。新政府は帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で韓国併合を行った。

文化面では欧米から新たな学問・芸術が伝来し、それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧(廃仏毀釈)などの動きも見られた。

詳細は大正日本近代史をそれぞれ参照

大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。

日本は第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになる。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動により、普通選挙が実施され政党政治が成立した。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が追い討ちをかけた。

詳細は昭和日本近代史をそれぞれ参照

長崎に投下された原子爆弾キノコ雲
1945年8月9日 戦後の食料難で農場となった国会議事堂
1946年6月 4等国から経済大国に。象徴東京タワー
1958年10月14日完成

昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。

大正期から続いた不景気から回復できないまま、世界恐慌が直撃し、社会不安が増大する。政党政治に代って軍部が力を持ち、満州を占領して満州国を樹立し、やがて中華民国との泥沼の日中戦争支那事変)に発展する。アメリカイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退。日本は国際的に孤立してドイツイタリアファシスト政権と三国同盟を結び、第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争)に突入した。

日本軍アメリカ軍の物量と通商破壊戦に圧倒され、さらにソビエト連邦が参戦して太平洋戦争に敗れた。終戦直前には広島長崎に世界で初めて核兵器を投下された。

戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領の下で、日本国憲法が制定され、天皇は象徴とされ、国民主権平和主義などが定められた。サンフランシスコ平和条約により主権を回復し、日米安全保障条約が結ばれ、冷戦下の西側陣営となる。政治的には自民党社会党の保革55年体制が続く。経済的には高度経済成長を遂げ、経済大国と呼ばれるに至った。

オイルショック以降日本の経済は安定成長期に入り、高度経済成長は終焉した。安定成長下で日本の工業は重化学工業から自動車や電気製品・半導体への産業の構造転換が進行し、サービス業をはじめとした第三次産業が大きく成長した。昭和の末期には円高と過剰な貿易黒字を背景に、投機熱による景気の過熱がおこり、日本はバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。

詳細は平成を参照

平成年間(1989年 - )は平成時代と呼ばれる。

昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、長い不景気に苦しみ、多くの企業が事業の再構築を進め、政治では構造改革路線が推進された。平成14年(2002年)から外需主導で景気が回復し始め、平成18年(2006年)にはいざなぎ景気を超える戦後最長の景気拡大を達成した。政治面では平成5年(1993年)に自民党の長期政権が終了し、55年体制が消滅した。非自民の連立政権は長続きせず、自民党は平成6年(1994年)には政権に復帰、

上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。

一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代安土桃山時代江戸時代と区分するが、これだけでは必ずしも十分でないため南北朝時代戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は本来なら「東京時代」と呼称すべきであろうが、天皇の在位に従って明治時代大正時代昭和時代平成時代と呼ばれている。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、これらとは異なる時代区分が用いられている(詳細→日本史時代区分表)。

日本における近代的な歴史思想の導入は、19世紀後半の明治維新以降のことであるが、それ以前も、古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。

ヤマト王権が統一国家を形成しようとしていた6世紀には、倭王家の系譜を記す『帝紀』・倭国の神話を記す『旧辞』が、7世紀前半には厩戸皇子らによって『天皇記』が編纂された。そうした修史の伝統を継承して、律令統一国家が成立した8世紀前半には、日本最初の正史である『日本書紀』が完成した。『日本書紀』は中国の正史の影響を強く受けており、天皇支配の正統性を強く訴え、皇位継承の経緯に関する記述が主たる内容だったが、もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。この「天皇の正統性」「日本の独自性」の主張は、『日本書紀』を含むその後の正史(いわゆる六国史。『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)の主要なテーマであり、以後、幕末期までその影響が及んだ。

正史である六国史の編纂は「撰国史所」などと呼ばれていた機関を中心に国家事業として行われたが、『日本三代実録』を次ぐ『新国史』の編纂が途中で中止されたのを最後に正史の編纂は行われなくなり、平安中期以降は官人らが政務処理に先例を参照するための歴史資料として『類聚国史』『日本紀略』『百錬抄』やその他各種の年代記が編纂された。以上の歴史叙述はすべて漢文体によるものだったが、平安後期になると、人間をあるがままに日本風に描くという国風文化の影響のもと、表現形式がより柔軟かつ豊富な和文体による歴史物語軍記物語説話集が多数記されるようになり、これらは、従前の正史的歴史観への新たな歴史的意味付けの所産であると解されている。代表的なものとしては、歴史物語では『栄花物語』『大鏡』『増鏡』などが、軍記物語では『平家物語』『太平記』などが、説話集では『今昔物語集』などがある。こうした作品により、武士や庶民へも歴史認識が広く流布することとなった。

鎌倉時代以降の武家台頭に対し、危機感を募らせていた公家層を代表して、新たな歴史認識を示したのは慈円の『愚管抄』である。慈円は末法思想と「道理」をテーマとして国初以来の歴史を説き起こし、武家が大きな政治権力を握ったことを「道理」観念で合理的に理解しようとしており、同書をもって初めて歴史認識が明確に示されたとする見解もある。中世には仏教的な歴史意識が広まったが、それに対抗して神官の間では『日本書紀』神話の講読が盛行し、神道の立場を中心として神話と歴史を結合させる思想が起こった。これを背景として、中世中期には、北畠親房により神道的な神国思想をテーマとする『神皇正統記』が著された。また、中世のもう一つの歴史認識は、年中行事有職故実などの儀礼を通じて歴史を考えるというもので、そのため、故実を伝えるための日記や各種記録文書が多数作成された。その影響で、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』も日記体をとっている。

幕末から明治維新にかけて、文明史など西欧の近代歴史学が一気に流入したが、特に進歩史観・進化史観が日本で急速に広まった。これは従来の日本にない新しい歴史観であり、歴史の中に普遍的な法則性を見出そうとする歴史観であった。この影響のもと、在野において書かれたのが田口卯吉日本開化小史』や福澤諭吉文明論之概略』などである。これは日本史と西欧史の共通点を強調する方向へ進み、脱亜論と結びついていった。

一方、明治政府の立場からは、天皇を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史叙述が構築されていった。それは大政奉還王政復古を正当化する歴史観であり、そのため大化の改新建武の新政明治維新が最も重要な改革に位置づけられ、こうした国家主義的な歴史観はとりわけ歴史教育の現場へ積極的に導入されていった。これは前代の国学や尊王思想を背景とするもので、根底には『日本書紀』以来続いてきた日本の歴史の独自性を強調する考えが流れていた。このように、明治以降の歴史認識・歴史叙述には、2つの潮流 - 歴史に普遍性を見出す方向と日本の歴史の独自性を強調する方向 - を見出しうるのである。

明治20年に実証主義史学の祖ランケの弟子に当たるルードビヒ・リースが帝国大学に招聘された。リースは厳密な実証史学を指導し、いわゆる官学アカデミズムが形成されたが、史料考証を重んじすぎるという憾みがあった。明治末期には、ドイツ歴史学派の影響による発展段階説が唱えられ、またマルクス主義による唯物史観が紹介された。大正期に入ると、マルクス唯物史観が重んじる歴史法則性を強く否定視する歴史理論(カントディルタイ)が紹介され、歴史哲学への関心を高める契機となった。この時期は社会経済史・文化史・思想史など幅広い分野に関心が拡がっていた。こうした歴史学の発展の一方で、歴史学と国家主義的な歴史観との衝突も発生していた(「神道は祭天の古俗」事件、

第二次世界大戦後は、日本の歴史の独自性を主張する立場は大きく後退し、歴史に普遍性を見出そうとする社会科学的な立場が主流となった。その中でも実証主義史学と特に唯物史観史学の2つが主潮流をなした。国家主義的な歴史観のくびきから解かれた戦後史学は多くの重要な実績を残したが、実証主義には歴史哲学を軽視するという弱点が、唯物史観には教条的になりがちという弱点があり、1960年代後半頃からその限界が指摘され始めた。1970年代からは、戦後歴史学に対する反省と見直しが始まり、1980年代からは特に精力的な取り組みが加速していった。この時期からは、従来あまり顧みられていなかった民俗学文化人類学などの成果を歴史学へ学際的に反映させる試みが積極的に行われている。これらの歴史研究の結果、人口に膾炙した歴史像を大きく覆すような成果が多数発表されており、網野善彦などがその代表として挙げられようが、反面、一般の間の歴史像と近年の研究成果との乖離が広がっていることも近年指摘され始めている。

他方で戦後は歴史の大衆化が進み、海音寺潮五郎司馬遼太郎など歴史小説の流行、または邪馬台国論争の隆盛のように歴史ブームというべき現象も起きており、学術的信頼性のない説(九州王朝説など)も一定の広がりを見せている。さらに、戦後大きく後退していた日本の歴史の独自性を強調する立場が、平成初年頃から自由主義史観と称してその主張を展開している。これらはいずれも歴史学と呼びうるレベルにはないが、一般の歴史に対する関心の反映として認識することができる。

(参考→

『朝日百科 日本の歴史』 全12巻、朝日新聞社 『岩波講座 日本通史』 全21巻・別巻4巻、岩波書店、1993年 - 1996年 『日本の歴史』 全26巻、講談社、2000年 - 2003年 『日本の歴史』 全32巻、小学館、1973年 - 1976年 『大系日本の歴史』 全15巻、小学館、1987年 - 1989年 『日本の歴史』 全26巻・別巻5巻、中央公論社、1965年 - 1967年 『講座日本歴史』 全13巻、東京大学出版会、1984年 - 1985年 『日本歴史大系』 全6巻 山川出版社、1984年 - 1990年 『日本の時代史』 全30巻、吉川弘文館、2002年 - 2004年 『国史大辞典』 全15巻、吉川弘文館、1979年 - 1993年 『日本史大事典』 全7巻、平凡社、1992年 - 1994年 『日本歴史大事典』 全3巻、小学館、2000年 - 2001年 その他、Portal:歴史学/日本史も参照のこと。

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